このまま死んだらいかんと思ってそこから進んだり停まったり戻ったりループしたりしてここまできたけど、結果なんも変わってない。

こんな程度でうまくいくとか思ってるのかおこがましいという事か。もっと真剣に努力しろこのやろうという事か。

8月15日の日記

2007年8月15日
「ギルバート・グレイプ」

「いい映画」「若き日のレオナルド・ディカプリオの演技に注目」という二つの情報だけ頭に入れてみていたので、ずっと主人公のギルバートがディカプリオなんだと思って見てた。うーむ確かにいい演技。父親の自殺のショックで極度の肥満体となった母、知的障害の弟、二人の妹。大型スーパーによって客を奪われた小さな食料品店の稼ぎで家族を支えるギルバート。家族を背負い、愛情を注ぎつつも、これといった楽しみもなく、何も変わらない毎日。誰かに感謝される事もなく、縛られたままの毎日。弱音を吐く場所も無く、そんなヒマもない毎日。そんなギルバートは、放浪するベッキーと出会い、彼女の奔放な生き方に影響される。しかし周りにあるのはいつもと変わらない毎日。そんな中、はけ口もないまま貯めてきたものがついに爆発し、ギルバートは生まれて初めて弟のアーニーを殴ってしまう。

ギルバートの演技は確かに素晴らしい。何もかも全部正しい人間なんていない。色々間違えながら、それでも生きてる人達。色々間違えながら、それでも生きてるギルバート。「あなた自信は何が欲しい?」とベッキーに尋ねられ、「いい人間になりたい」と答えるギルバートの心情が痛いほど伝わる。確かにいい演技だ。
しかしそれ以上に弟のアーニーの演技が素晴らしすぎる。一体誰だこの役者は?レナードの朝も見たけれど、アーニーの役者の方がすごいと感じた。確かにギルバートを演じるディカプリオも素晴らしいが、こんな凄まじい演技をする人間が無名なの?とか思ってたら・・・。

エンドロールで「ギルバート・グレイプーージョニー・デップ」「アーニー・グレイプーーレオナルド・ディカプリオ」とかいうのを見て「ディ、ディカプリオ天才!」と思わず叫んだぼく。スゴイよディカプリオ・・・。


俺はご存知の通り何もしてない。ギルバートのように強く生きていないけど、家族に対しては同じようなことを感じてる。夕食のシーンであまり会話に参加せずボーっとしてるギルバートの気持ちが一体どんなものなのかとか凄くよくわかる。家族の幸せを願いつつ、色々間違ってる家族や、色々間違ってる自分、変わらない毎日。全編とおして切なかった。


映画のラスト、「どこへでも行ける」と呟くギルバート。どこへでも行けるその先にあるのは、何かが変わった毎日なのだろうか。

8月15日の日記

2007年8月15日
どうせ何もしないでオナニーばっかしてんのなら、せめて何かを摂取しようというコトで、映画を15本くらい見てCDを10枚くらい聞いて漫画を読んでゲームをしてました。以下それらの感想を書きます。ネタバレあったりするので見る時は気をつけて。



「木更津キャッツアイ 日本シリーズ」
ドラマの特別編という感じ。

「スウィートノベンバー」
仕事人間ネルソンが不思議な女性サラと出会い、サラがつくった妙な「ルール」に従って愛に目覚めていくけども・・・という話。

最後の最後までルールどおりにする事の意味は?と思った。ルールを壊さなきゃ意味が無いのでは?もちろん、ルールを壊すとただの王道恋愛映画になってしまう。それが嫌だったのだろうか?
サラの煮詰まった状況を打破してこそ何か特別なものになるんじゃないかなあと思う。あそこでネルソンが身を引くなら、なんのための二時間だったのか。死に行くサラのわがままに付き合ってあげました、ってだけじゃないでしょうか。
コンセプトの時点で映画として失敗している気がします。

「トラフィック」
再視聴。アメリカの麻薬問題を正面から捉えた作品。様々な登場人物を通して需要側アメリカ社会と供給側メキシコ社会に巣食う麻薬問題をあぶりだしていく。
多視点から麻薬問題の実態を描きつつそれを作品として成立させているのは素晴らしいと思う。安易な暴力描写ではなく、麻薬とそれに関わるリアルな死が物語に緊張感をもたらしている。どの視点からも、麻薬問題の「どうしようもなさ」「打つ手の無さ」が浮かび上がってくる。
しかし、打つ手ありませんで終るのではなく、最後にはそれぞれが未来に向けてのほんの少しの明りを灯している。特に映画のラストシーン、照明のついた公園で野球をする子供たちをデル・トロが見つめるシーンはハイライト。打つ手の無い現状、それを変えるためにこんな事しかできないという虚しさと、それでもこうやって何かが変わるのではないかという希望とが入り混じった、なんとも言えないグッとくるシーンだ。

「マシニスト」
難しすぎるだろコレ!

冒頭と中盤に出てくる死体を海に投げ捨てるシーン、アレの意味がわからん。少なくとも見てる時は意味がわからん。というか見終わった今でも意味がわからん。なんでアレを冒頭に持ってきた?ぜんぜん関係ないと思うんだけど。とりあえず衝撃的にしたかっただけか?トレバーが罪の潜在意識を捨て去ろうと、忘れ去ろうとしている・・・と「言われれば」あるいは「そう思い込めば」まぁそうか、と納得するけども・・・。なんていうか、冷蔵庫に入れた魚が腐って、釣り好きだったトレバーが全てを思い出す、ていうのもなあああ。車に張ったステッカーと写真だけでは釣り好きのヒントが少なすぎると思う。俺は全然ついていけなかった。
というか、釣り好き→事故で封印→腐った魚で思い出す、、って、別に釣りをシンボルにしなくてもいいような気がする。思い出すなら他にもなんかあっただろう。

なんていうか全体的に、キーワードに「必然性」がないような感じ。冷蔵庫に張ったメモにしろ、トレバーの潜在意識が罪に気づかせようとしている、なんて、言われればわかるし思い込めばそうかと思うけど、実際にソレが答えだ、と言われなきゃわからないと思う。しかも映画の中でその答えが明かされないという。寝る描写の後に妄想世界が入ってるらしいが、それだけで気づけってのは無理では・・。言われなきゃキーワードの重要性がわからない。ドエトフスキーマニアじゃないとわからないキーワードがあったりするし。リアルタイムで見て全て理解できる奴はいないと思われる。サイトを見てみても、一人だけ完全にネタバレを(偉そうに)書いてる人がいたが、リアルタイムで全て理解していたかどうかは怪しいと思うんだけどなあ。
だってさ、分岐点の話とか、エスケープの意識とか、ルート66とか、そんなの全部「必然性」がないように思うんだけど。これ初見で全部完全にキーワードの意味が理解できた奴なんているのか?俺はキーワードの意味なんか全部わからなかった。

最後の大オチだけはさすがに誰でもわかるだろうけど、ただしそれ以外のキーワードの意味は何だったの?ってなる映画だと思う。ていうか俺はそうなった。

とにかく、キーワードの「必然性の無さ」が致命的な作品だと思う。

「コントロール」
後味悪い。
気性を抑える薬を飲まされ順調に変わっていく凶悪犯罪者のリー。犯した罪を後悔し、完全に生まれ変わった彼だったが、飲まされていた薬は実は偽物。彼に対する実験の目的は、ホンモノとの違いを調査するためだった。

ていうことはつまり、どうなろうと最終的には殺されていたということか?犯した罪が巡ってきて、生まれ変わったリーに降ってくる。生まれ変われる事は変われる。でも、生まれ変わったって過去は消せない、償いはしなければならないというコト?この映画はそれを伝えたかったというコトか?だとしたら、なんてくだらない映画だろう。もちろんそりゃ、ハッピーエンドなんか最初から無いのかもしれない。このストーリーが始まった時点で、こういう結末は逃れられないものだったのかもしれないが・・・。でもそれじゃ、あまりに普通すぎると思うけど。あたりまえすぎて、わざわざ映画にする意味がないだろうと思う。

罪とは誰にとっての罪なのか?かつてのリーの罪は、生まれ変わったリーが償わなければならないのだろうか。だとしたら生まれ変わった意味は?確かに映画としてはそこそこ面白かった。しかし、例えば少年法だってそうだし、性犯罪の再犯防止にしてもそうだけど、そういう社会問題的な意義のある作品になりえたが、エンターテイメント方面を意識した後半からラストまでの流れがそれを台無しにしたと言える気がする。何を狙ってこの映画を撮ったのかはわからない(プラシーボ効果の素晴らしさか?改心しようが何だろうが必ず制裁は受けねばならないという因果応報か?だとしたら別に薬なんか飲まなくたっていい。反省して刑務所から出てきた男が被害者に関係のある人間に復讐されるという、ただそれだけの映画を撮れば済む事だ。)が、物語後半は別の道があったのではないかと思う。
まぁ、娯楽サスペンスに意味を求める方が間違ってるか。

「カンパニーマン」
「キューブ」のヴィンチェンゾ・ナタリ監督作品。うーん。
要は主人公の正体が自らを洗脳したルークスで、愛のためにこんな危険なミッションをしました、というだけの映画で、大オチが大した事ない上に作品の全てが大オチのために作られているため、映画としては非常に退屈な仕上がりとなっている。「ソウ」みたいなオチのための映画。
「ソウ」は、「握られた命」という謎と恐怖の両方が混じったストーリーのため、オチまでも、退屈ではあるものの、しかしそれなりに緊迫感があったが、こちらは大して緊迫感も無い企業スパイを(これといった目的や終着点も見えないまま)淡々とこなしていくだけなので、その退屈さ加減は昼夜逆転の俺を夜中の一時半にうたた寝させるほどだ。もっとも、大オチのためには企業スパイを終えたその先にある目的を別に作ってしまうわけにもいかないのかもしれないし、まぁ、こういう題材を選んだ時点で、こういう作品が出来上がるというのは仕方の無い事なのかもしれない。
超ハイテク施設の数々はそれなりに迫力があったが、それもこの映画に限ってはただの飾り物で、別に必要でもなんでもないあたりに取ってつけてみました感が溢れ出ていて、なんというか駄作だなぁという感想。

「10億分の1の男」
しょうもない映画を見てしまった。
ストーリーの追わせ方がド下手糞。よく事情が飲み込めないまま勝手に先へ進んでいく。
「運」による勝負もまるで緊迫感なし。写真がどうの相手の運を吸い取るだのはっきり言ってわけわからん。全てがわけわからん。物語の全てに必然性がない。感想を書くのもバカらしい。とにかく運による勝負も、何故勝負をするのかも、登場人物の関係も、全てに「必然性」や「意味」がない。設定は素晴らしいだけに残念。監督がド下手糞という以外に無い。

「レザボアドッグス」
感想が書きづらいというか・・・。
とでもない名作だと完全に信じ込んで期待して見たはいいが、実際、正直そこまでいいとは思わなかった。ここの所途中で眠くなるような、「一体この物語はどんなラストを迎えるのだろう?」なんて好奇心なんかこれっぽっちも湧かないような作品ばかり見ていて、さすがにそれよりは良かったものの、取り立てて興味深い映画というわけでもなかった。なんというかもっとスゴイのを想像してた。
宝石店強盗に集まったプロの泥棒とその雇い主たち。しかし、強盗の情報は明らかに警察に洩れており、待ち伏せを食らってしまう。誰が警察のイヌなのか?撃たれた仲間が重症で苦しむ中、アジトの倉庫で「イヌ」探しをする強盗たち・・・。
それぞれの経緯を見せながら、徐々に煮詰まっていく物語。時には暴力。みたいな、なんかそんな感じの映画、としか思わなかった。映画の手法が素晴らしい、と言われれば素晴らしいような気もする。確かに斬新な展開の仕方だけど。
しかし、ハードルが高かったせいだろうか、そこまで面白いとは感じなかった。うーん。

「フォーンブース」
鳴っている電話ボックスの受話器を取ったら電話の相手から「電話ボックスから出たら殺す」と脅される、という話。
設定は面白いし、どうしようもなくつまらない映画が意外に多い事を思えば、あるいはそれらと比べれば、物語も飽きることなく追わせてくれるけど。うん、まぁ。
犯人オマエ暇すぎるだろ!!と誰もが突っ込んだに違いない。
娯楽としては十分の出来。

「π」
うーん。難しい。パスでお願いします。

「バタフライ・エフェクト」
面白かったよ!!久々に当たったよ!ネットで評判見たら、ちらほらツマンナイとか、今更タイムスリップものですか(笑)、みたいな意見を目にしたが、俺は是非その人達にπやマシニストや10億分の1の男を見て欲しい。バタフライエフェクトがつまんねーだなんてあんたら贅沢だぜ・・。
面白い映画(緊張感のある映画?)を見ると思わず終盤に声が出てしまう俺。「これすげえ」「おもしれえ」「いやーきたこれ」などなど声が出ましたバタフライエフェクト。

幼い頃に起きた色々な事件の影響を受けて育ってきた主人公エヴァン+その幼馴染3人。そんな中、幼馴染の一人にある出来事が起こる。自分が過去に戻る能力を持つ事に気づいた主人公エヴァンが、その出来事を変えるために、過去に戻り過去を変える・・・。

ちょっとあらすじの説明が下手だけど。
いいよ!面白かったよボクは。使い古されたネタでも、緊張感のある映画のつくりが良かったよ。ただ、たま〜に突然デカイ音出してビビらせるという狡い事やるのが気にいらない。そんなことしなくても十分緊張感ある物語になってるのに。

確かに、矛盾点というか、強引に話を進めてる感はある。記憶喪失のところにルーラで何度も行ける的な。「記憶喪失したからルーラで行けるのか、未来からルーラしたから記憶喪失なのか」とか、実はごちゃまぜになっていて、そういう設定の「論理の整合性」はぶっちぎってる感があるものの、所詮それは物語のサイドの部分であって、本筋にはあんま関係ない感じ?というか、それを気にさせない物語の展開のうまさの勝ちでいいんじゃないでしょうか。少なくとも俺はあんまり気にならなかったよ。ネット見てもまぁ矛盾点はあるけどいいんじゃないみたいな意見が多い。

ディレクターズカット版(セルDVD)には当初予定されていた「真のエンディング」があるらしい。その内容をネットで見てみたが、まぁこれは、ねえ。

つまり、「真のエンディング」を選ぶと「哲学的には成功するが映画として失敗」する。
「劇場版エンディング」を選ぶと「映画として成功するが哲学的には失敗する」みたいな問題なんだろうと思う。確かに、哲学的に完成させるためにはエヴァンは最後償うべきだ。しかしこれはあくまで映画。劇場版エンディングで問題ないと俺は思う。劇場版エンディングもねえ、深く考えてみると「さんざやっといてそれだけ?」的なコトは確かにあるよ。でもそんな深く考えさせないほど、なんていう作品全体かいい。最後のあのホームビデオの中に戻って言うセリフ。あれいいよ。なんていうか映画としてうまいよ。それにまあ、劇場版エンドでも十分切ないし。

あと子役が四人とも超自然。まるで違和感が無い。これもこの映画の質の高さについての重要なポイントだと思う。

キューブとesは激しく人に勧めた。これは激しく勧めるほどではないものの、でも見て損はない。娯楽として質が高い。イヤホント面白かったコレ。素晴らしい。

「12人の怒れる男」
面白かった。なんていうか単純に面白かった。ちょっとだけ後半声出た。
12人の陪審員たちそれぞれのパーソナリティが議論の場で強く現れていたのが興味深いです。12人も登場人物おぼえらんねーよ!と最初思っていたが、まるで杞憂だった個性的な12人の怒れるオッサンたち。

なんか深く考えずに、陪審員たちの物語!ていう感じで見る映画だと思う。だから感想としては、面白い映画でした、という事です。

「ミリオンダラー・ベイビー」
ええ〜っ。
・・・・・。
・・・いややっぱり、ええ〜っ・・・。

という感想。

三十路を超えた素人同然の女ボクサーと、腕は優秀だが慎重すぎてまぁ色々アレな老トレーナーの物語・・・。
ボクシングは「はじめの一歩」のみの知識なのでアレだが、それにしても特筆すべきことのないボクシング映画で、なんでこれがアカデミー賞?とか思ってたらボクシングはまさかの前フリでした。

尊厳死という非常に微妙な問題を扱った作品。「バタフライ・エフェクト」でも何度目かの過去でミリオンダラーベイビーの後半みたいな事になって、過去を変えに行くわけだけども、俺はその時思った。「これ障害者を否定してないか?」と。バタフライエフェクトの方はそれは「過程」で、しかもそのシーンがラストで重要になってくるのでまぁ流せるっちゃあ流せるか・・イヤ流せないよなあ。

ミリオンダラーベイビーについてはそれがラスト。結末だ。おそらくカトリック教会とかから抗議を受けたと思う。そしてはっきり言って、バタフライエフェクトに関してもミリオンダラーベイビーに関しても、抗議を受けて当然だろうと思う。

こういう問題を映画で描くというのは、非常に難しい。社会的にデリケートとか言うんじゃなく、哲学的に無理だ。おそらく映画の力なんてそんなものなんだろう。あくまで映画であって、どんなノンフィクションだってデフォルメされる。人間をそのまま映す鏡にはなれないし、仮に鏡になれたとしても、ただそれだけの事。答えを出す事まではきっとできない。

俺にしても、尊厳死について語る資格はない。俺自身、モーガン・フリーマンの言う「死んだ毎日」を送ってきたり送ってこなかったり。その中で、生きる甲斐なんてないような孤独もあった。今でこそ死にたいなんて思わないが、それでも人生が喜びに溢れてるなんて事はちっとも思わないし、相変わらず自分はどうしようもないままだし、あの頃のように孤独になれば、今だって俺は生きる甲斐なんてないと思うだろう。

俺が悩み続けてる事と一緒みたいなもんだ。俺はそれに答えを出せないから、この映画について何も言う資格はないし、そもそも言う気も起こらない。
なぜか。思考停止です。逃げてるだけです。でも、俺だけじゃない。誰が答えを出せる?


「カッコーの巣の上で」

これは・・・・・。凄い映画だった。イヤぁぁぁ凄まじい映画だった。

強制労働だかなんだか、とにかく労働から逃れるために詐病を用いて精神病棟に検査入院したマクマーフィ。「治療」ではなく「統制」を目的とした婦長の徹底的な管理体制。マクマーフィは患者たちと素直に向き合い、抑圧的な婦長に反発する。そしてマクマーフィを中心に、患者たちは人間らしく生きる事に目覚めていく。


ホントに凄まじい。当時の(あるいは今も)精神医学、そして俺たちみたいな「自分で自分を常識人だと思ってるヤツ」を強烈に皮肉った映画だ。
婦長、マクマーフィ、そして患者たち。一体誰の精神が病んでいるのかわからなくなる。

本当に凄まじくて、俺の器に余る。誰かこの映画を見てくれ。そして君の答えを聞かせてくれと、思わず他人にゆだねたくなる。勧めるのではなく、ゆだねたくなる。

以下感想になってない感想を書く。ネタバレになるから、この映画を見る人は以下の文章は見ないで下さい。あと、この映画を見るなら、ウィキペディアかなんかで、ロボトミーに関しての知識を軽く摂取してから見るのをお勧めします。





患者の事より、統制、管理を重視する婦長。破天荒ながら素直で純粋な振る舞いで次から次へと「問題」を起こすマクマーフィ。それに感化され、心からの笑顔を見せるようになっていく患者たち。

マクマーフィの起こす「問題」は、世間から見た時の話だ。患者たちにとってマクマーフィが巻き起こしたことは、「楽しい事」だ。無断で皆を連れ出して船釣りに行く。マクマーフィも患者たちもキャンディも、皆はしゃぎまわって楽しそう。船が海岸に戻ってきた時、レスキューやらなんやらが物々しい雰囲気で彼らを出迎えた。病院を無断で抜け出し皆で釣りをする「楽しい今日」も、世間一般の人に言わせると「危険な問題行動」でしかないのだ。

誰とも話さず反応せず、聾唖だと思い込まれていた患者「チーフ」も、マクマーフィの自由奔放で体当たり的な接し方に心を開く。

さらに、ミーティングのシーン。婦長が取り上げたタバコを返せとチェズウィック(だったっけ?)が騒ぎ喚いている最中、ズボンに引っかかった火のついたタバコに気づかず、ゲイリー(だったっけ?)が「熱くて」突如叫びだした。しかしそれを見た婦長や係員は、身動きが取れないように彼を押さえつけ別室に運び込もうとする。ヤケドして叫ぶ彼を、精神に何の障害も持たない彼らは、「イカれた患者が暴れだした」と決め付けて見た。

閉じこもろうとする患者たち。それが「相応しい」とする婦長たち。それらに反発し自由に生きることを謳歌するマクマーフィ。彼らが織り成す物語は、衝撃的な最後を展開する。

人によって見方が分かれる映画だと思う。「統制と自由」「正常と異常」「生きている毎日と生きながら死んでいる毎日」。この映画を見て、こうだ!と答えを出せる人はいないんじゃないだろうか。俺も、考えるのはキツすぎるので、「カッコーの巣の上で」を見て、言葉にできない思いを感じた事を、記憶にとどめておくだけにする。

そこまで大げさに「スペシャル」というわけではない。強烈に俺の脳髄に食い込んだかといえばそういう程でもない。けれど、それでも、誰かにゆだねたくなる映画なのは間違いない。



「ダンサー・イン・ザ・ダーク」
長らく向き合ってこなかったこの映画に関して、これを機にとりあえず書き残しておこうと思う。

高校のとき、映画のCMで流れた「アイヴシーンイットオール」の感想のビョークのシャウトを聞いて惚れ、家族で小学校のときにジュラシックパークを見に行った時ぶりに映画館へ足を運んだ。

まさに賛否両論分かれる映画。もちろん、「なんてことない映画でした」という感想の人もいるが、それにしても賛否の分かれ方が激しい映画である事は間違いない。

個人的に、否定派は映画を見て意見を言っていて、賛成派は主人公セルマを見て意見を言っているんじゃないかな、と思う。別にどっちの立場が正しいとかはもちろんない。

映画を見た人は、胸糞悪い映画だと思う作りになっている。
セルマを見た人は、彼女の恐怖、願い、幸福、そして最後の最後に、それまでの妄想としてのミュージカルではなく、現実に歌となった彼女の叫びに、「ただ不幸だから涙を流す」のではなく、心の底の何かを揺さぶられて涙を流したのだろうと思うというか俺はそうでした。

やはりなんと言ってもビョークの演技が凄すぎる。映画を見てビョークのCDを腐るほど聞いた。しかし今ではもう全く聞かなくなってしまった。特に好きってわけでもなくなった。

つまり贔屓で言ってるんじゃなく、ホントに凄い演技なのだ。

監督のラース・フォン・トリアーは他にもいくつかド不幸な映画を撮ってるらしい。彼がどういう意図でこの映画を撮ったのかは知らない。ひょっとしてとにかくド不幸にしてお涙頂戴って感じで撮ったのかもしれないし、別の意図があったのかもしれない。しかし結果として、ダンサー・イン・ザ・ダークの構成は素晴らしいものだ。

映画を見ていて、例えば「トラフィック」のラストシーンとか、ああいうシーンを撮れるっていうのは、なんていうか監督の才能だなあと思う。

そしてダンサー・イン・ザー・ダークのラストの流れも、やはり才能だなあと思う。他の人には出来ない。感覚でしかないが、「これは・・・」という思いになる、なんていうかスペシャルだ。

「リロ&スティッチ」
意外に面白かった。ディズニーに限らずよく出来たアニメってキャラクターの動きのテンポに魅力があるような気がする。スティッチがかわいい。

「クラッシュ」
人種のサラダボウルアメリカの問題を描いた映画。受容と非受容が俺の日常の問題だった事もあって、アメリカは一見何の問題も無いような顔してるけど、一皮めくってみれば人種差別に関する問題は根深いんだろうな、と思っていた俺。クラッシュはまさにそんなアメリカ社会に根ざした問題についての映画。
様々な登場人物の人生を通して、そこにある問題と一筋の光明を見せるというのは「トラフィック」と共通した手法だと思う。
勝手な被害妄想で他人からの被差別を過剰に意識し、それによってさらに堕ちていくという点では、映画の中ではコーンロウのカッコイイ黒人と俺は似てるかも。ただ彼より俺のほうが妄想深いことは間違いない。つまり何が言いたいかというと、俺のほうがマヌケで甘ちゃんだって事です。
映画としては、ひょっとして俺の理解力が無いだけの話かもしれないけど、全体的に「人種差別問題の誰が正しいのかわからなくなる感じ」を描いていると感じました・・・かな?「トラフィック」が明確に麻薬門題のどうしようもなさを訴えているのとは違い、「クラッシュ」は例えばベテラン警官と若い警官が差別と平等をそれぞれ対照的に彷徨うように、一概にある人間を善だとか悪だとか決める事はできない、というところが印象に残った。
ただ、自分の勇気の無さからくる被害妄想でしか差別環境に置かれた事もないような俺には、何かを語る資格もないし、この映画を見て語る言葉も出てこない。

「saw2」
前作はオチのための映画、という感じがして、オチまでが少々退屈に感じた。シチュエーションは緊迫しているはずなのだが、なぜか見ているこっちはそれほど緊張せず。
今作はオチまでも楽しめた。緊張感があった。期待のオチも面白かったです。

一万字超えたので以下秘密日記へ。

7月23日の日記

2007年7月23日
場所も人も本も映画も音楽も、あまねく全ての知らないものが嫌い。嫌いというか、知らないものに対しては全力で警戒する。不安になる。自分が拒絶される可能性に対して、それが1パーセントでも敏感な反応を見せる俺は、人型スーパー高性能拒絶可能性レーダーだ。



脳が何かを分泌したりとか色々やらなきゃ思考も出来ない。つまり俺の性格も、脳が何かを分泌してそういう考え方の志向というか、俺という性格が結果的に生じてるはず。

俺のチキンさ加減も、やっぱり脳の機能的なものが原因のはず。他人に嫌われたくない俺は、一体脳のどの部分でどんな物質を分泌してどんな反応をしてるんだろう。それとも、こういう物質を摂れば人間の脳ではこういう反応が起きてこういう状態になります、というだけであって、性格とかには関係ないのかな。



あるケースに遭遇したとき、そのケースに反応して人間を不安な気分にさせる物質が脳内で分泌されるから、人間は不安になる、というメカニズム。じゃあ、その人間を不安な気分にさせる物質を分泌させる判定はどうやって行われる?「ケース」にアウトの判定を出して「不安物質」を分泌させるその判定は何がやってる?それが性格だろうか。じゃあ性格って何だ。経験とか積み重ね?でも俺は物心ついた時から周りの色んな自分を傷つける可能性のあるものにビビッて生きてきた。積み重なる前にもうすでにビビッてた。

そもそも、薬やサプリで性格そのものが変わるなんて話は聞いた事がない。やっぱり性格は性格なんだろう。治せる気もしない。どこまでいっても嫌いなものは嫌い、怖いものは怖い。怖がる自分を受け入れることもできない。だから諦めた振りするか、カッコよさげな言い訳探してくるしかできない。

「このチキンのクズ野郎」といわれれば頷くしかないけど、でも俺は、たまたま社会的に必要なものとか、普通の人が出来る事が苦手なだけ。「ゴキブリだけはマジでダメ!」っていう人に、根性でどうにかゴキブリを好きになれというのは無理だ。知らないものは全てダメ!な俺も、また根性でなんとかできるものではない気がする。逆に、根性でなんとかなるならその方が良かった。

勇気も難しそうな気がするけど、でも覚悟なら俺にも出来るような気がする。そもそも覚悟ができるかどうか、仮に出来たとして、覚悟だけでどこまで押し通せるか。

あー、明日も見知らぬ人にノートコピーの交渉しないと。ホント何も変わってないな。

7月22日の日記

2007年7月21日
自転車のカゴに、奇怪な生物らしきものがくっついていた。恐る恐る傘で触ってみると、どうやら何らかの虫の抜け殻のようだ。俺の自転車のカゴで脱皮してんじゃねえよ。ゆうに300台以上は並んでいるであろう自転車の中で、この奇怪な虫は何故よりによって俺の自転車のカゴで脱皮をしようと思ったのか。おぞましい抜け殻を残して飛び立った成虫は、一体どんな姿カタチをしていたのだろう。

そんなことを考えながら、自転車のペダルを見てみたら、丸まって雨に濡れた小冊子がペダルの間に挟まっていた。俺の自転車のペダルにイタズラしてんじゃねえよ。こんなチンケな小冊子、そこら辺にポイと捨てておけばいいものを、わざわざ丸めて他人の自転車のペダルに差し込むなんてどこの誰だか知らないがまったくお茶目さん。

大学で、休んでいた授業のノートをコピーしなければならないのだが、俺には知り合いがいないので、人が良さそうなおとなしそうなノートコピーさせてくれそうな人を選んで声をかけてみた。

「すいません、ノートコピーさせてもらえませんか」

そしたら明らかに嫌な顔されて、「なんで見ず知らずのテメーみてえなろくに授業も出ねえで遊んでるようなやつにマジメにやってる俺が無償でノート貸してやらなきゃいけねえんだよクソが」みたいな雰囲気がありありと出ていたので、チキンな俺は思わず「500円でどうですか」と口走ってしまった。高い。俺は交渉には向いてない。

続く授業でもノートをコピーさせてもらうため、優しそうな人に声をかけてみる。そしたらまた明らかに嫌な顔をされたが、そこは日々成長する男こと俺。前回と同じ徹は踏まない。

「300円でどうですか」

たぶん、勝った・・よね?どうなんだろう。とりあえず、交渉は苦手だ。

7月20日の日記

2007年7月20日
18〜23歳の5年間で、苦労して掴んだものは、諦めたフリしてその場をやり過ごせるようになったって事だけ。

筆舌に尽くしがたい5年間を過ごしてこれだけだから、今後も知れてる。

変われる人ってすごい。それがどんだけ難しいか。俺には少しの可能性も感じられない。

何言ったってどう嘆いたって、変われないのなら意味が無い。変われない自分を罵って、ついに行き場を失って、仕方なく諦めたフリ。「人生は一切無だ」なんて、我王が言えば真理でも、俺が言うと透けて見えるダッサイ言い訳。

俺はスッゴイ色々ダメだ。仕方が無いから、今まで皆が見てきたように、真理っぽいあらゆる言葉を引っ張り出してきて、シコシコ繕う作業。

1から10まで自分の所為で、人並みすら高望み。
誰かを心の底から愛してみたいと言ったけど、それには勇気がいる事に気づく。誰かを信頼したり、愛したり出来る人はすごい。俺には勇気が無い。結局俺は自分本位、自分が一番大事。俺は覚悟も無いのに何かを望んで、適当なところで諦める。その際、もっとも力を入れるのはそれっぽい言い訳探しだ。ずっとそうやってやってきた。それでもうまく行かなきゃ人の所為にして、自分は正しい被害者だとか決め込んで、はっきり言ってどうしようもない。

生きている限り、覚悟があろうがなかろうが、どうしても何かを望んでしまう。覚悟が無い人間に、果たして生きる資格はあるのだろうか。疑問に思う。

でも、そんな事言ったって仕方ない。諦めるか、勇気と覚悟を持つか、それともこれからもずっとバカみたいな顔して人生終るまでそれっぽい言い訳探すか。アイムフリー。どれだって選べるはずなのに、俺はどうしても諦められず、勇気も覚悟ももてず、といういつものごとくどうしようもない事この上ない結論。因数分解してみても、いつだって結局何も変えられない。どれだけ客観的に自分を眺めても、そこからじゃ何も変えられない。どうすれば変えられるか知っているのに、俺にはどうしても変えられない。

自由はフリーじゃないと思います。自由っていうのは自分で決められるっていう事。誰かにとってみれば、その自由は結果的にフリーと同じ意味を持つかもしれないけど、俺にとってはまやかしのようです。100個選択肢があっても、俺が選べるのはいつも最初から決まってる。100個の中で一番姑息で嘘くさいやつ。

こんな23歳。23年生きてきて、精神年齢は青春真っ只中。たまにこれでいいのかと思うけど、思ったところでいつもの通り、どうにもなりません。まあ、まったくしょうがねえな俺って、くらいのもんですけど。

7月5日の日記

2007年7月5日
今日、UFOらしきものを見た。

バイト終わり、同僚の話を聞きながら駐車場までの道を歩く。出会って三日で付き合い始めた同僚同士は、すぐに別れ、そしてまた付き合い始めたそうだ。女の子のほうは失恋で体調を崩すほどのショックを受けており、まぁ元の鞘に戻ってよかったと思う。なので俺は、そのカップルの男の子の方から、元の鞘に戻ったという話を聞いて「良かった良かった」等と思っていた。

そんな中、空に小さく、赤くて複雑な形をした物体が見えた。そしてそれはフッと消えてしまった。雲に隠れたのかもしれないが、どうも雲に隠れたような徐々になくなっていく消え方ではなく、まるで別の次元に移動したかのように、本当にフッと消えてしまった。

飛行機の光があんなに赤いはずはない。その上、飛行機の光なら点状に見えるはず。俺が見た赤い光は、どう見ても物体のカタチをしていた。

消えた赤い物体は、もう一度フッと現れた。しかし俺はその時、実に30時間以上もの間、何も口にしておらず、頭もからだもフラフラだったので、UFOらしき物体を軽くスルーして家路に着いた。

吐き出す

2007年7月1日
この前俺が書いた事は甘かったかもしれない。

前にもチラっと書いたけど。

どうしようもない地獄がある。俺は苦悩しただの何だのしょっちゅう書いているけど、そんなものとは比べ物にならない地獄を生きてきた人がいる。

その人にとっての人生とは一体なんだろう。なんだったのだろう。

苦しいだけだったのだろうか。何か、救いはあったのだろうか。

考えたって俺にその人を救う事はできない。しかし、あまりにも酷いよ。

自業自得・・・努力すれば・・・。脳の足りないやつらは、バカの一つ覚えみたいにそれを口にする。どんな不幸があっても、めげずに生きろだって?そんなのは恵まれてるやつの戯言だ。自分では何も考えずに、資本主義になすりつけてるだけだ。何もかも、理不尽に奪われたことがあるか?しかも、憎む相手もいない。失った悲しみだけが残る。

バカにされ、疎んじられ、そして憎まれ、それでも働くか。泥をすすってでも働いて生きたらよかったのか。生きるとか、簡単に言うなよ。生きてる間中、失った悲しみ、後悔、どんなに苦しかったろう、怖かったろうと考え、自責の念にかられるだけでも、それでも生きる意味はあるのか?どうやったら救われるっていうんだ。忘れればよかったか?できるわけがない。

あーあーあーそれでも!!!その通り、自業自得だよ!!忘れられなかったのも、あるいは耐えられなかったのも、その通り自業自得だよ!自業自得ってのは確かに正論だ。そしてそれが最も楽な逃げ方だ。だから自業自得だなんていうんだ。

自業自得が正しいとしても、それで済まそうとするなんてどうかしてる。確かに俺たちにはどうしようもなくても、彼らが自分たちでどうにかするしかないとわかっていても、それでも自業自得なんて言葉を俺は使いたくない。使えるやつの気が知れない。

みんなの答えを聞きたいけど、みんなだってきっと何も言えない。

俺も、事の断片しか知らないから、想像でモノを言ってるだけだ。でも、どう考えたって救われない。

生きるのが残酷なことだってあるんだ。そしてそれは、ほとんど運だよ。運とか、不運とか、こんな軽々しい言葉で言いたくはないけど、だって現実に、起きてしまった事はもう変えられない。絶対に、二度と戻ってこない。

本当は考えたくない。どう考えたって絶望しか見えないから。それでも、それを信じたくない。何か救いがあったんじゃないかって信じたい。だって酷すぎる。あまりにも酷すぎる。



何もかも、一つだって答えは出ない。
卑怯な人間だと思う。そんな理想に合わない自分を、嫌いだとか、何もかもどうでもいいとか、こんなのは違うみたいな逃げ方をずっとしてきただけなのか。
本当にやるべきなのは、こういう自分を認めることか。
色々考えて、何も変わらなくて、年だけ喰って、取り残されて。わがままと自己顕示欲だけ。それともこれでいいのか。そもそもこんなものなのか。むしろこれだからいいのかもしれない。

完璧な自分が、完璧かつ安定した毎日を送ったところで、特に何も無い。例えば聡明で理知的でカッコよくてまあとにかくパーフェクトでも、例えば自分が思い描く理想の人間像でも男性像でも大人像でもとにかくどれでも、そいつらが送る毎日も、今の自分が送る毎日も、あるいはどうしようもなくなった未来の自分が送る毎日も、どうせ大して変わらない。そんな気がする。だってどんな俺でも結局俺だし。俺のやることなんて変わらない。どんだけ頭が良くなったって、カッコよくなったって。

どんな俺になってもきっと、なんかこんな事書いてるだろう。たまに浮かれた日には、浮かれた事書いてるだろう。

そしてきっと、悩みがあるから人生は面白い。だからこそ生きる価値がある。完璧な人間になった瞬間、もう毎日を送る価値はなくなる。いい意味でも悪い意味でも、それが極まった時、生きる価値はなくなる。完璧な人間が送る完璧な毎日は、完璧に昨日をトレースする。完璧じゃない俺は、ある日浮かれ、ある日落ち込み、ある日絶望し、ある日立ち直って、それを繰り返す。何年も、そのサイクルは変わらない。何も成長してない。俺は相変わらず、卑怯でわがままなクソったれのままだけど、完璧な毎日よりは退屈しない。後悔のひとつもしないなんて、味気ない。何かに焦がれる事もないなんて、面白くない。

どしようもなく弱くて卑怯な自分だったから、引き裂かれるような苦悩もあった。みんなと同じようにできない自分が嫌いだった。
せめて人並みに生きろよとは思う。ちゃんと大学通えよとか思うし、なんの穢れもなく誰かの事を愛してみたいとも思う。でも仮にそうしていた自分も、想像してみるとなんだか味気ないか。
まぁでも、それでもいいのかな。こうやってんのも悪くないのかな。きっとずっとこうやって、変わらないままあっちこっち間違えるだろうけど、それだからいいのかも。
どっちにしろ、選べない。俺はこのままだろう。変わる事もなく、ずっと。

よくわかんないや。ああでも。

そのよくわかんないのが重要か。わかってたらそりゃつまらない。どうなるのかどころか、いいのか悪いのか、それさえわからないから、意味がある。よかろうが悪かろうが、確定した瞬間、きっと生きる意味ってなくなるんだろうと思う。

自分のクソさのせいで、あるいはそのクソさ自体を、悩んで悩んでホント苦しくて、生きる意味はないと思ったし、そもそもこんな苦しいくらいなら死んだ方がどう考えてもマシだと思った。
でも、俺が悩んでたのは抜け出すためだったような気がする。だからきっと救われていたような気がする。まぁ今考えたら絶望でもなんでもない、単に俺がダメすぎただけの事もあるし、逆に今考えてもイヤになるくらい本気でどうしようもなかったこともあるけど、どっちも絶望じゃなかった。当時、どうやったって抜け出せない、どうやったって変われない、出口が見えない、とかが日記のラストのキメ台詞だったと思うけど、でもそれって抜け出したいからそう書いてるんだよなあ。出口を探してるからそれがないって事がわかる。ないのがムカつくから書いて、絶望的な気分になる。

これが出口を探すのを諦めたら、もう終わりなんだろうと思う。

これ、昔うららさんとかに言われたことがある。「もがいてるうちは大丈夫、悩んでるからこそ大丈夫」みたいな。「当時は、そんな事言ったって、もがいてようが悩んでようがどう見たって出口がないし、ていうかそもそもこんな(大学行ってないとか)事で悩んでる時点でどうしようもないじゃん俺」と思ってた。まぁ確かにそんな事で悩んでんのも出口見つけられないのも今思えばダメなんだけど、でもこれ諦めてたら終わりだった。そういう意味では確かにうららさんの言ったことは正しいんだなあと今思う。あああああ、どうしよう、どうしようもないよ、あああ、って、確かにそんな事で悩む俺はどうしようもないけど、でも諦めてないって部分では評価できる。俺はダメだ、そして出口がない、ってのが確定してしまうと、もうどうしようもない。出口を探そうとしなくなって、そうなるともういよいよ生きてる意味が全くなくなって、本気で死ぬことを考えるだろう。どっからどーーー考えても死んだ方がマシ、ていうのも、そう思えるって事は大丈夫なんだろうなと思う。本気で諦めたら、死んだ方がマシじゃなくて、死のうになる。

何書きたかったのか忘れた。だから、要は悩んでてもいいんじゃない、って事かな。苦しいからイヤになるけど、でも実はそれって大丈夫。・・・確定しちゃうとダメだから、たぶん大丈夫だろう、きっと・・て感じか。

だから、変わらない自分を、ずっとどうしようもないままの自分を、そんなに悲観することもない。苦しいしみっともないけど、でもそんなに悪いことじゃない。俺はずっとこのまま変な事悩んだり、苦しんだり、実際変だったりするだろうし、それは悲しかったり、まぁあまり良くないことだけど、まぁたぶんそれはそれで大丈夫だろう。

もう一年大学留年するのも、誰も愛せないのも、いいんじゃない。イヤ、よくはないよ、よくはないけどさ、それを考えて嫌な気分になるって事は大丈夫。大学留年も誰も愛せないのも、嫌な事だけど、それをこうやって嫌な事だ、と認識してるうちは大丈夫。それを考えても何の感情も沸かなくなったり、それどころか考える事さえしなくなったら、もうダメなんだ。

俺だって人並みになりたいけど、ここまでくれば俺でもわかる。俺は人並みになれない。下にずれてんのかはみだしてんのかとにかく、俺は多くの人が普通にやってる事ができない。そんな自分を受け入れられないのも、変われないのもどっちも、それを悩んでるうちは、大丈夫。大丈夫じゃないけど大丈夫。それらの事が、悩みでもなんでもなく、その事実を突きつけられても、何の動揺もなく、ただ平然と、その事実が頭の中をすり抜けてくようになったら、そん時俺は、きっと本当にマジでどうしようもない人間になる。こうやって、俺ってなんてバカでどうしようもなくて最低で卑怯で言い訳のしようもないクズ野郎なんだ、って思って最悪の気分になってるうちは、それがどんだけバカでどうしようもなくて最低で卑怯で言い訳のしようもないクズ野郎な自分で、どんだけ最悪な気分だったとしても大丈夫。

こんな自分が原因でイヤな気分でくだらない毎日で生きる意味も無い、とか思うのも大丈夫。

確かに俺はどうしようもないしくだらないが、しかし、こんなどうしようもない自分が送るくだらない毎日を、くだらないと思わなくなったら、それこそ異常だ。そりゃもちろん、毎日がくだらないなんて思わないほうがいいに決まってるが、しかし、そこはなんと言ってもやっぱりどうも、こんな自分だし。どうにもそこは変わんないし。

「どうにもそこは変わんない」とか思って、どうしようもねえなあ、まぁ仕方ねえか、とか思ってる俺は大丈夫。ホントにどうしようもない人生なら、「どうにも変わんない自分」なんて認識すらない。
だって「どうにも変わんないから仕方ない」ってのは変えようと悩んでいるから「どうにも変わんない」っていう結論が出てくるし、それを本気で受け入れられないから「仕方ない」っていう言葉が出てくる。諦められないから「仕方ない」って言葉が出てくる。
変わる事を諦めた人間には「どうにも変わらない」という結論は導き出せない。というかそもそもそんな事すら考えない。
仮にどうにも変わらない自分という結論に達して、それを受け入れたとしても、それを受け入れた瞬間に自尊心もなにもなくなり、まるで抜け殻のようになってしまうだろうから、「仕方ない」なんて言葉さえももう出てこないだろう。


なんかややこしいし、最後わけわかんなくなったけど、とにかく大丈夫だ、たぶん。俺だけじゃなくてみんなも。

6月25日の日記

2007年6月25日
鉄壁のガードですよ。傷つかないように傷つかないように。

傷つかないってことが全てに優先する。だから人を愛せない。

そんな自分が嫌いだから、完璧になろうとする。完璧な人間になれば、もう誰も自分を傷つけることなんてできない。

でもそれって、不老不死になるために火の鳥の生き血を求めるのと一緒だ。

それを置いといたとしても、俺が考えてる愛が崇高すぎるのかなんなのか、どうにも俺は自分が人に愛されるに足る人間のようには思えないし、人を愛せるような気もしない。今までだってよく考えたら、性欲とか、雰囲気に流されたとか、そんなんでちょっと気持ちが動いた程度のものだったんじゃないかという気がしてくる。

愛だけが人生ではないけれどしかし、人を心の底から愛してみたいと言った俺は、これを流せない。流せないがしかし、かといって留めてみてもどうにもならない。なんか考えれば考えるほど人を愛せない人間のように思えてくる。それじゃ困るんだけど、でもどうしようもないのでとりあえず保留で。愛って何ですかというところから始めなきゃいけない俺は、なんかみんなより損してる気がするんだけど。

6月22日の日記

2007年6月22日
出会って三日で付き合ったカップルの女の子の方は、何か多くを語らなかったのでよくわからないけれど、とにかく今毎日泣いてるらしい。わからん。何で?今幸せなんじゃないの?

あと、俺なぁ。俺やっぱダメだな。めちゃくちゃ悩んできたっていっても、それって俺に勇気が無いのが原因だもの。だもの。

まぁいいや。とにかく週末の宝塚記念が楽しみすぎる。今日と言う日を迎えられたことを神に感謝しそうになるくらい楽しみだ。ちょっと展開予想でもしてみようかなんて妄想してみた日には、次から次へと有力馬があふれ出てきてもうお兄ちゃん限界。競馬好きでよかった。

しかしそれだけにスイープトウショウの回避は残念。仕方ないとは言え、陣営が一番残念だろうとはいえ、やはり残念。

馬券を買わない俺だけど、もし買うとしたら本命はカワカミプリンセス。とにかく逃げなきゃどうしようもないアドマイヤメイン、アサクサキングスなどの逃げ馬や先行馬、そして何より有力どころのメイショウサムソンとダイワメジャーが早めに勝負をしたい、となるとハイペースは必死。激しい展開になるだろう。そうすると、今まで厳しいレースで勝ちきってきたカワカミプリンセスが有利になるんじゃないかと思います。ウオッカはダービーが究極仕上げだっただろうという点と、スローペースの競馬しか経験してないのが不安だけど、でもパワー満点のロベルト系だし、古馬の牡馬とは7キロ差っていうのも相当有利。そこら辺の三歳牝馬が7キロ差なら当たり前でも、ダービーを圧勝した馬が7キロ差で出てくるんだから、あっさり勝つかも。

とにかく楽しみにゃー。ホントすごいメンバー。あああホントすごいメンバーコレ!メール無視されても全然平気スゴイメンバーコレ!

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2007年6月19日コメント (2)
オタマタマにクスリを塗り続けていたら、カサカサだった今までと比べて明らかにハリとツヤが出てきました。

6月17日の日記

2007年6月17日
俺23歳なんだけど、なんか全然23歳って感じがしない。気分は18歳。みんなこんなもんなのかな。イヤーやっぱ俺が甘やかされてるからのような気がする。


ほんと、俺は好きに生きるよ。なんかそれだけ表明しときたかった。

6月16日の日記

2007年6月16日
新入りのバイトの子と、俺より前からバイトにいる人が付き合ってるらしい。なんか出会って三日で付き合い始めたらしい。

なんか、なんでかなあ、と思う。イヤ別に俺がモテなかったとかそういうコトはどうでもいい。どうでもよくはないけどまぁでもいい。なんとなく、うん、だって俺、タマタマがカユくてたまらないような人間だし。なんかタマタマがカサカサしてるし。

イヤマジで。なんせ発症が二年半前だから。「特に異常ナシ」の診断が下ったにもかかわらず、実に二年半もの間めんどくさくて薬塗らずに長引いてるってんだから、まぁなあ。

しかし、三日で恋ってできるものなのかねえ。恋の定義って実はあやふやだよなあと思う。俺は今まで色々恋をしてきたと思っていたけど、ホントにそれは恋だったのかよくわからなくなってきた。しかし虚しいのは、そんな事やあんな事を考えてみたって意味がないって事だ。ちょっと前までは希望に満ちてたような気がするけどなあ。今となっては、それすらホントに恋だったのかどうなのかよくわからん。

人の良さそうな中年の女性と、のほほんとした顔の高校生くらいの男の子が、店で買い物してるわけです。商品を手にとって笑ったりしながら。たぶん親子。

それを見て、素敵だな、とか、生きるって素晴らしい事だな、とか、なんか切ないような悲しいような気持ちとか、そういうのが入り混じったよくわからない気持ちになった事が今日一番印象に残った出来事でした。

介護の問題で

2007年6月16日
某居酒屋ナントカの実態を検索してみた。

去年、その居酒屋を扱った本を読んだことがある。アマゾンなんかの書評では「さわやか」「爽快」「バイタリティに溢れた社長は尊敬できる」とかいうことが書いてあったが、そもそもそういう読後感を与えるような本じゃなきゃ出版できないだろうというコトを考えると、本としてはさわやかであっても、現実にそうかというと疑問符がつくことくらいは自明である。

ちなみに俺は、本を読んでて気持ちが悪かった。だって超ウサンくさいもん。事情があったので我慢して全部読んだが、最後の最後まで「ボクは人間道徳の王道ですアピール」が気持ち悪くてヘドが出た。これが「社会的に素晴らしい」こととされ、勝ち組にはこういう人間がなるのだと思うと、まったく気分が暗くなった。なんというおためごかし。哲学的要素のカケラもない。「モノゴトを考える」という意味での。

会社が大きくなっていく、というのは人に爽快感を与える題材であることは間違いない。なんせサクセスストーリーだから。でも、ねえ。

介護問題についてはよくわからない。ウチのじいさんは某救急病院に入院していたとき、物凄く不機嫌だった。こっちの問いかけを無視するのでなにが不満なのかはわからないのだけれど、機嫌が悪いことだけはわかった。山奥の施設に変わってからは機嫌も良さそうで、こちらの問いかけにも答えるようになった。最近は会ってないが、徐々に弱ってきており、あと半年くらいだそうだ。

ウチの亡くなったばあさんは、毎朝施設に行くのを嫌がっていた。

俺が孤独とかなんとか人生の意義とかについて悩むのは、この二人と家族を見てきたからかもしれない。

家族は険悪だった。無関心な父、負担を一手に引き受ける母、「ヒキコモリの長男」、娘のところへ行きたいとわがままを言うばあさん、それに怒る世話をしている母、まるで罰のように一人で食事をするばあさん、一緒に食事をしようと家族にはたらきかけるヒキコモリの長男、嬉しそうなばあさん、翌日、娘のいる埼玉に行きたいというばあさん、怒るいつも世話をしている母、関東から駆けつけてくるばあさんの娘、食事に連れて行ってもらう糖尿病のばあさん、それに鬼のような態度をとるいつも世話をしてる母、泣くばあさんの娘、それを慰めるひきこもりの長男、母親の不満を聞くひきこもりの長男、無関心の父、施設にいる寝たきりのじいさん、嫁に来た時にじいさんに性的な嫌がらせを受け、それをばあさんに相談したところ、微笑みながら「好きなようにしたらいいよ」とだけしか言われなかった事を、ひきこもりの長男に泣きながら打ち明ける母、憎み、しかし世話をする。次男と長女は無関心。どこか一人、客観的に眺めているような長男は、どうして誰一人救う事ができないのか悩む。そして救えそうで、結局誰一人救えない事、自分にその力がないことを知る。こんなもののために人生があるのだろうかと、悩む。

ばあさんは、「はやく死にたい」とよく洩らしていた。

ばあさんが死んで、長女は遺体のそばを離れなかった。母とばあさんの娘は泣きながら仲直りをした。父は弔辞で涙を流した。

彼らの涙を見ることなく、ばあさんは死んでいったのだ。

なぜ俺だけでも、ばあさんに何かできなかったのだろう。もう今では誰も考えない。俺は今でも考える。だって、きっとあの事態をなんとかできたのは、ばあさんを救ってやれたのは、俺だけしかいなかったのだ。あの状況で一人わかっていた。色々なことがわかっていた。全員の苦しみを想像できた。誰よりも、婆さんの孤独と絶望を理解できた。俺もまた地獄にいたから。あるいはだからこそ、手一杯だったのだろうか。それでも、俺は何もしなかったのだ。その後悔だけが残る。
老いと死についても考える。人生は素晴らしいなんて、何を見てそう言うんだ。何も見てないか、現実逃避のどっちかだ。

そしてその現実逃避が正しいのだ。あらゆる意味で正しいのだ。ほとんどの人はそう信じて生きている。俺も、そうしなきゃおかしくなってしまうから。

6月16日の日記

2007年6月16日
宝塚記念のメンバーが物凄い事に。

メイショウサムソン・・・牡4歳。オペラハウス産駒。昨年の皐月賞、日本ダービーのクラシック二冠馬。秋は菊花賞、JC、有馬記念とらしくない競馬が続いたが、年が明けて大阪杯と天皇賞・春を制し復活をアピール。今秋には凱旋門賞挑戦も視野に入れる、古馬中長距離戦線の主役。

ダイワメジャー・・・牡6歳。サンデーサイレンス産駒。2004年の皐月賞を人気薄で制すも、その後ノド鳴りを発症。陣営の努力の甲斐あってノド鳴りを克服し、安藤勝巳との出会いもあって、昨年の天皇賞・秋、マイルCSを連覇。年が明けてのドバイ遠征では3着に終るも、帰国初戦の安田記念を制してG14勝目。6歳と高齢だが、キャリア中で今がもっとも充実している。昨年の有馬記念で距離の融通性も証明済み。昨秋不調だったメイショウサムソンとの「パワー・勝負根性対決」も見物だ。

アドマイヤムーン・・・牡4歳。エンドスウィープ産駒。昨年春のクラシックの主役と目されながら、皐月賞、ダービー共に結果を出せず。秋は菊花賞ではなく天皇賞・秋に進み3着。その後は香港、日本、ドバイ、香港と遠征を重ね、ドバイDFでは初のG1制覇を飾る。クラシックでは歯が立たなかったメイショウサムソンと、天皇賞・秋、ドバイで1勝1敗のダイワメジャーとの再戦で、中距離戦線NO.1の座を狙う。

スイープトウショウ・・・牝6歳。エンドスウィープ産駒。2004年の秋華賞を制し、2005年の宝塚記念では、ゼンノロブロイ、タップダンスシチー、ハーツクライ、リンカーンといった当時の強豪牡馬をナデ斬って優勝。同年のエリザベス女王杯も制す。牝馬で2歳から走り続け現在6歳。全盛期と比べると多少力が落ちているかもしれないが、持ち味である瞬発力はまだまだ健在。上位進出のチャンスは十分ある。

カワカミプリンセス・・・牝4歳。キングヘイロー産駒。昨年のオークス、秋華賞を無敗で制す。エリザベス女王杯ではスイープトウショウらを寄せ付けず強さを見せ付けるも、結果として1着降着となった。今年はヴィクトリアマイルから始動するも、出遅れもあって惨敗。復権を目指して一流牡馬との初対決に臨む。

ウオッカ・・・牝3歳。タニノギムレット産駒。昨年の2歳牝馬限定のG1、阪神JFを制して牝馬クラシック戦線の主役に。エルフィンS、チューリップ賞と底知れないスケールの大きさを見せ、ダービー挑戦も囁かれていたが、肝心の桜花賞でライバルと目されていたダイワスカーレットの2着。しかしそれでも陣営はオークスではなくダービー挑戦を決定。そして記憶に新しい5月27日の東京競馬場、牡馬を相手に完勝し、見事64年ぶりの牝馬によるダービー制覇の快挙を成し遂げた。

その他にも、道営の星、2004年の皐月賞、JC2着で昨年シンガポールでG1を制したコスモバルク、今年のシンガポール国際航空を制したシャドウゲイト、昨年本格化した有馬記念2着のポップロック、2005年ダービー2着で復活が待たれるインティライミ、昨年のダービー2着、菊花賞3着でハイペースの逃げが武器のアドマイヤメイン、今年のダービーを2着に逃げねばったアサクサキングス、昨秋の天皇賞2着のスウィフトカレントなどなどなど。


超豪華宝塚記念。

記憶にある中での豪華さでは、サイレンススズカ、エアグルーヴ、メジロブライト、シルクジャスティス、ステイゴールドらが一同に介した1998年が今までで一番だったが、今年はそれよりも豪華だと思う。2003年もそうだったが、その年のダービー馬が出走すると途端に盛りあがる気がする。色んなところで再戦とか初対決的な挑戦とかなんやかんやあってもう豪華。骨折休養中のドリームパスポート、さらにはウオッカが出る以上、それを真っ向から打ち破ったダイワスカーレット(しかもダイワメジャーの妹)がいないのが残念だが(スカーレットは3歳牝馬だしいなくて普通だけど)後は全部揃った感じ。なんというか機も熟している気がする、

テイエムオペラオー以降の競馬は、一頭独裁だったように思う。テイエムオペラオー、シンボリクリスエス、ゼンノロブロイ、ディープインパクト・・・。時代の顔は移り変わっていくし、もちろんその中にも様々なライバルたちとの戦いがあったのだけれども、基本的には一頭独裁だったような気がする。なんていうか、結局終ってみればなんのヒネリもなかった、的な。

しかし、それでも時代の繋ぎ目はやはり面白かった。ワクワクした。しかし、オペラオー〜クリスエス時代にはジャングルポケット、マンハッタンカフェらの故障。クリスエス〜ロブロイ時代にはネオユニヴァースの故障と、案外だったザッツザプレンティ、どうにもイマイチ突き抜けられないリンカーン、それらが勝手に脱落していって結果一頭独裁だったゼンノロブロイ。なんだかんだあって、「面白くなり損ねた」感じがする。そしてその後は、当たり前のように勝つディープインパクト。

ディープインパクトが引退し、今は時代のちょうど繋ぎ目に当たる。そして次世代の主役を張ろうとする強豪たちが、一同に介したのが今度の宝塚記念だ。

何が素晴らしいって、この「一同に介した」感が素晴らしい。おそらくこのメンバーが一緒に走るのは、今回が最初で最後だろう。オペラオー、ドトウのように毎度毎度同じメンツで同じ結果というのも、今考えれば見事というかなんというか凄いことだけど、やっぱり競馬が面白いのは、少なくとも俺が競馬に魅せられている最大の理由の一つは、そこには「一瞬」が存在しているからだ。

連綿と続く競馬のサイクルの中で、確かに点が存在する。一期一会の点が存在する。レース前から緊張で手足の感覚が変わるような、そんな「一瞬」が競馬にはある。今言う時期的、メンバー的な一期一会もそうだし、競馬のレース自体に一瞬が存在する。

そこには無限の夢がある。可能性や希望という名の無限の夢を、現実に収束させていく。その媒体がレースなのだ。レースを通して、ただ一頭の勝者とその他の敗者に分かれていく。夢が現実という結果に変わり、歴史になる。そしてその歴史は、厳然たる事実でありながらも、人の夢を終らせはしない。競馬は続いていくという意味でもそうだし、その歴史自体に人は夢を見れる。

ネットではやれレベルが低いだのあの頃のあの馬よりその頃のどの馬の方が強いだの「断定的に」書いてあるけど、実につまらない競馬の見方だと思う。そういった夢を見ることができるのは確かだが、どれだけそれっぽい証拠や理屈を並べてみても、それはあくまでも夢なのだ。実はそれは夢のままであるから輝きを放つのだというコトを見落とし、「断定」しようとするのは、競馬の楽しみ方として本末転倒だと俺は思うんだけど。まぁたぶん。

とにかく俺はワクワクしてるのでいいと思います。最近の悩みといえば明らかに飲んだ量よりオシッコが出る量のほうが多いことくらいです。昨日ラピュタ見ながらCM全部オシッコ行くくらい。あと相変わらずキンタマがカユイ。あと、いかに競馬が好きでも、馬券を買わない俺は、どれだけ妄想を膨らませても生活の2割くらいまでしか競馬で時間を占められないということに気づいた。現実の毎日ってのはやっぱりどうもならん。救えないのは、そこから抜け出す方法がないことだ。それがスタンダードだというコトだ。たとえば愛し愛されても何も変わらないし、何かこう願いが叶ったとしても、それはそれできっとつまらないだろいうということだ。そんなもんだ。仮にその責任があるとしてもそれは俺にだし、まぁ別になんやかんやでいいんだけど。

6月8日の日記

2007年6月8日
フラれた。というかデートに誘ってみたら彼氏がいた。恒例である。

この年代(20前後)の女子の彼氏率ってほぼ100パーセントじゃない?バイトの人も小学校の同級生も彼氏いないなんて人は一人もいないんだけど一体これどうなってんだ。この現実を目の前にしてもまだ君は世界は平等だなどと甘いことを言うつもりか。え、どうなんだこのやろ。


で、どうしよう。どうしようというか、どうするもこうするもないというのが現実です。退学か進級かは依然予断を許さない状況であり、公務員試験の勉強はちっともはかどらない。なんか見た目全然変わってない気がするんだけど果たしてこの23歳は大丈夫なんだろうか。

というか23歳か。なんか全然自覚無い。でもよく考えてみたら、それも当然な気がする。18くらいからずっと、なんか停まってるというか、進んでても大分遅いペースというか。ムダに年だけとった様な。

なんかここへ来て、自分が弱いやつだったことがついにプラスに転じたというか、悩み飽きてきた。なんせ・・・もう5年だよ。5年ひたすら自分を卑下して嫌悪して自尊心ゼロの被差別妄想に明け暮れてきた。ホントにそれしかしてこなかったんだから、なんとムダな18-23歳の貴重な時間。こう書くと後悔してしまいそうになるけれども、でもそれが俺なんだって事はよくわかってる。

俺は自分がかわいいんだと思う。自分が好きなんだと思う。だからこんなに内向的な時間が多くて、5年間自分の内側の事しかやってこなかった。自己の自己に対するツンデレ。

これが他の人に人生ならムダでゴミのような時間でも、俺にはどうしても必要だった5年間だろう。仮に何一つ得るものが無くても、変わったところが無くても、それでもこの5年間は必要だった。23年間人生を生きてきたけど、本当の人生は5年前、部活を引退したときから始まってる気がする。それまではオープニングみたいな感じ。平和で楽しいノスタルジーが終って、始まった「何か」は変わらず今も続いてるような感覚。

・・・とか、こういう自己満足自己完結してるから外の世界に対して疎いのか、外の世界に対して疎いから自己満足自己完結に走るのか。あれ?ていうかそんな事考えてるのも自己満足自己完結でなんやかんやです。モテないかもしれないけど、そんな自分が結構好き。それに、ムダってわけでもない。なんせ人間、内的世界をコントロールできたら理論上は無敵。

6月3日の日記

2007年6月3日
今、何だかんだ言って退学かどうかの瀬戸際である。まぁ毎度の事といえばそれまでだけれども、今回は本気で失敗の先には退学が待っている。が、いまいちやる気にならない。退学した自分をうまく想像できないのか、それとも想像した上でどうでもいいと思っているのかはよくわからない。そして、やっぱりフラれそうである。

それでもなんか、そういうのって面白いなあと思うのが今。決定的に変わった瞬間はないように思う。何も変わらないように思える毎日の中、実は緩やかに変節していたのかもしれない。

俺は強くなりたいと思ってた。ビクビク他人の顔色を窺って、疎外されないように、受け入れてもらえるように、認められるように、愛してもらえるように、自分を変えたいと思っていた。

相変わらず自分に自信はない。しかし、自信がない自分も面白いと思う。全部に自信があったら、それは極めてしまったというコトだ。自分に間違いがなく、この先も変わらないと言っているのと同じだ。後は毎日変わらず、揺れ動く事もない自分が、残りの時間をまるで義務のように生きるだけになってしまう。

そして俺は、今そう思う自分の事を疑ってかかる。そう思えるのは単に今、精神状態が良好だからに過ぎないのか、それとも本当にそう思えるような人間になったのか。あるいはそう思うのはただの逃げだったり、甘い考えに過ぎないのかもしれない、とか。それでいいと思う。

それでもやっぱり、強い人には憧れる。勇気を持って決断を下し、そこで自分を張って生きていける人はすごいと思う。

フラフラしていてもいいと思う。妬んで卑下して悲しんで、浸って、喜んで笑って満たされて、怒って泣いてエトセトラ。ぼく人間。

そんなフラフラ野郎な俺には、誰かに愛される資格なんてないのかもしれない。俺は惨めで何の魅力も無くて、疎んじられ軽んじられるかもしれない。しかしそれでも、俺が誰かを愛することを制約するものは、この世に何一つない。

5月22日の日記

2007年5月22日
音楽を聴いてるだけで幸せな事もある。競馬の事を考えてるだけで満足なときもある。
逆に、そんなのが頭に入ってこないくらい不安なときもある。最近は無いけど。

何のために、が問題だ。何やっても最後に死ぬなら、死ぬために、が理由になってしまう。輪廻転生を信じられるならそれでもいいけど。
無になると思う俺は、なんのためにここでこうしてんのかわからなくなる。

しかしそう考えると、そのためじゃないだろう、ていうのもみえてくる。虚勢張って生きてても仕方ないし、人から賞賛されるためなんてのもしょうもない。逆にホントに周り中から軽蔑されるなんてのもダメだ。

哲人(哲学者だけでなく、なんか色々考えてそうな人たち)の残した名言ていうのは、程度や方向に差はあるけれど、大体それぞれ「究極」だと思う。なんというか、突き詰めていって最終的に達したもの、あるいは削って省いていって最後に残ったもの、って感じ。本当に大事だとその人が思ったもの。

「自分がそのために生き、そのために死にたいと思うような真理を発見する事が云々〜」と言うような事をキルケゴールが言ったそうです。キルケゴールが何をした人なのか知らないけど。俺も今これ。

しかし、こういうのを全部得体の知れない何かのせいにできると、ホントに楽だろうなと思う。神とか運命とか。特に運命なんかは、「人間に果たして自由意志なんてあるのか?」なんて事を考えるとアリかもと思うけど、でもそれで終らせちゃったんじゃつまらないし、なんか癪だしなあ。うん、癪だし、それに、ビッグバンから地球誕生とかそういうのは運命でもいいかもしれないけど、今の俺の部屋で散らばってる全てのものの配置も運命で宇宙が始まったときから決まってましたなんてのはバカバカしい。だって全てが運命なら、使い終わったティッシュの丸まり具合も宇宙が始まったときから寸分違わず決まってたって事になる。

一見考えを放棄してるみたいだけど、「死ぬまでの暇つぶし」はいい線いってる気がする。なんか肩の力も抜けるし、俺みたいなすぐ周りが見えなくなるような奴にはこれくらいがいいのかもしれない。しかし、生とか死とか大きく考えればいい線だけど、日常的な話にするととたんに説得力がなくなる。暇つぶし気分でやっていけるほど、毎日は単純じゃない。

そうだ、そう考えると、最後に結局無になる(と俺は思う)としても、俺には失いたくないものがいっぱいある。それを守るためってのはどうだろう。うーん、でも、音楽とか競馬とか守る必要ねーな。友達も、俺よりよっぽど楽しく生きてるような気がする。それぞれ色々あると思うけど。少なくとも俺が守るためにすべき特別な事はない。普通に接してそれで楽しければいい。

でも、食と安全は守る必要がある。テレビが見れなくなったら競馬見れないってのもある。

いつか死ぬ、というのは、なかなか厄介な宿命だと俺は思うんだけどなあ。頑張ったところで無意味、かといって何もかも投げ出せるほど、生きる重要度というか価値は低くない。ていうことは、何もしたい事がないのなら、肩の力抜いて生きればいいって事か。

じゃあ肩の力抜いて生きようか、って結論しようとしても、それもなんかちがう。たぶん競馬と音楽と友達とあとまぁマンガとかネットとか色々だけじゃ、物足りないんだ。たぶん、友達以外すべて受動的だから物足りないんだと思う。

じゃあそうだ、過去から学ぶってのはどうだ。過去に後悔した事とか、そういうところからやりたいことをはじき出す。賢人は失敗から学ぶ。過去の失敗といえば、真っ先に恋愛が浮かぶ。勿論、誰かを好きになった時点で過去の失敗を生かす、という事はできるけど、しかし人を愛すなんてのは次に生かすどころか努力でどうこうなる問題じゃない。ある程度は努力できるにしても、決定的な部分は俺の意志ではどうにもならない。

他に後悔してる事といえば・・部活の最後の試合とか部活全般だけどこれも生かしようがない。受験勉強は・・アレは今戻ってもやらないだろう。ひきこもり生活は・・わざわざ持ち出さなくてももう繰り返さない。後、大学とかコンビニバイトとかは、後悔というより単に嫌な思い出だし。いや、というか、もっとメンタル的な部分で考えなきゃダメだ。

部活は、なんていうか、うーん、もっと本気で真剣にガッついて練習してれば良かった、と思う。「これは限られた貴重な時間である」という認識が足りなかった。うん、これは使えそうだ。受験勉強は、逃げた部分だ。つまらなくて成果の見え難い努力と、目に見える結果が怖くて逃げた。これもなかなか学ぶところがある。ひきこもり生活は、これも逃げたんだけど、学ぶ学ばない以前の問題だな。コンビニバイト時代はどうしようもない。大学は、知らない人でもちゃんと接しましょう、みたいな感じか。これ、俺の知らない人恐怖症って、Gさんが取り上げてて気づいたけど、小学校時代にハブられたのもそうだけど、「知らない人は怖い人」って刷り込まれたのも原因だと思うんだよなあ。高学年になるまで帰り道がものすっごい怖かった覚えがある。ビクビクしながら泣きそうになりながら帰ってた。一回いつもどおりビクビクしながら帰ってたら近くで車が停まって、サングラスかけた男に「小学校はどこにあるか」って尋ねられて、突っ走って近くの畑で農作業してたオッサン(まぁこれも知らないオッサンだけど)に助けを求めたことがある。なんつーか「車から小学生に道を尋ねる」なんてのはグラサンに何のやましいことがなくても、バカな行為だと思う。配慮に欠けるというか、俺なら車から小学生に道を尋ねるなんて絶対にしない。っていうかなんか、普通そんなことしないよね?あれ、そう考えるとやっぱあの日のグラサンは悪いヤツだったのかも・・。実際、我が近所ではいわゆる「変態」がたくさん出た。俺は出会わなかったけど、下半身を露出してくるオッサンに出会ったクラスメイトは多い。

というかそもそも子供に限らず、「知らない人はみんな敵、知ってる人も信頼はしても信用してはいけない」ていうのは鉄則だと思う。自分とか、まぁ自分だけなら自己責任だけど、大切な人を守ろうと思ったら自然とそうなると思う。だって人間なんて何するかわかんない。「俺は真っ当な感覚の持ち主だ」なんて思ってるヤツだって絶望や怒りで変わる。戦争や映画「CUBE」「ES」のように、状況でも変わる。

公園の遊具と人間は違う。

ていうかそもそも、知らないオッサンに挨拶するメリットなんて、仮に危険がゼロだったとしても別にない。オッサンから何を学ぶというのか。知り合いを増やして地域の目で守るって、知り合いになったオッサンが登下校時に目を離さず守ってくれるとかそういうこと?俺が泣きついた農作業してた知らないオッサンはちゃんと守ってくれた。俺の通学路には全く人気の無いところがあった。そんな通学路のどこに地域の目があるというのか。

昔がどんなものだったか知らないけれど、時代は変わる。車の無い時代に交通事故の心配をする必要はなかったかもしれない。しかし今、交通事故の可能性があるのだから気をつけるのは当たり前だ。「青信号でしか道路を渡れないなんてかわいそう!」なんて事は誰も思わない。

・・・と、数々の大量殺人者やら異常殺人者やらなんやらについて読んできた俺は思う。

仮にそういう教育が原因で人付き合いに難がある人間に育ったとしても、そのときにはもう子供じゃないんだから。自分の状態を認識し、自分を変える必要があるかどうかくらい判断できるはず。人付き合いがうまくなるように努力するのも、自分にはとても無理だと諦めるのも、教育のせいだなんて自分の問題なのに別のところに原因を押し付けて満足するのも自由。自己責任。

そう、自己責任だ。俺はもう一度大学入学時に戻っても、友達つくろうなんて思わないだろう。三月くらいから「ちゃんと接しよう」と努力してきたバイトは効果が出てきてるし、これも別にいいや。今の俺は知らない人は大嫌い(人ゴミも、雑多なのが嫌いなんじゃなくて知らない人がいっぱいいるのが嫌い)だけど、孤独の辛さも身にしみてわかってる。そこら辺のバランスはとるから別にいい。つまり、もう学んでる。・・だいぶ時間とか苦しさとか労力とか要ったけど。

ということで、「これが限られた時間であるという認識」「目に見える結果から逃げたこと」の二つを生かす。

限られた時間ですか・・・。部活のように、大切なものにしか適用できないな。今現在限られた時間なのは大学とバイトだけど、適用はできない。別に今なくなってもそれでいい。いやバイトがなくなったら孤独すぎて絶望すると思うけど、でも別に限られたかけがえのない時間、て感じじゃないんだよなあ。小さい枠じゃなくて大きい枠で考えたら今この瞬間もかけがえがないけど、ていうかそもそもそういう大きい枠で考えたかけがえのない時間をどう過ごすかについて今考えてるんじゃなかったっけ。どうだったっけ。

目に見える結果から逃げたこと・・。これはその立ち向かうべき対象が問題だ。目に見える結果が出るものでも、楽しいことや充実してる事ならそもそも逃げないし、嫌な事だったら別に無理する必要もないし。・・でもこれは、今でいうなら就職に当てはまる。勉強というコトも加味すると、公務員試験ガンバレというコトになるがしかし、なんかここまでくると当初の目的とはかなりズレてるような気が。

結局やりたい事がないワタシ。ああでも、でもやっぱし就職かなあ。「とりあえず今のところは」と考えると就職かなあ。食と安全と適度に孤独じゃない職を探しそれに就けるように努力すんのか。マジでか。俺の生きる意味ってそんなんか。

もっと大切なこと、あるように思えるんだけど、実際探してみると無いから困る。結局何のためでもない。何かのために生きたいけど何もない。

いいかもう。何も無いんだからしょうがない。なんか出てきたらその時そのために生きればいいや。なんか、いいんじゃないの、だって何もないって程何もないわけじゃない。今、大学は卒業したいとかそういうのは思ってるし。今はそういうのでもいいんじゃない。だから今日も行ってきます、で。

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