介護の問題で
2007年6月16日某居酒屋ナントカの実態を検索してみた。
去年、その居酒屋を扱った本を読んだことがある。アマゾンなんかの書評では「さわやか」「爽快」「バイタリティに溢れた社長は尊敬できる」とかいうことが書いてあったが、そもそもそういう読後感を与えるような本じゃなきゃ出版できないだろうというコトを考えると、本としてはさわやかであっても、現実にそうかというと疑問符がつくことくらいは自明である。
ちなみに俺は、本を読んでて気持ちが悪かった。だって超ウサンくさいもん。事情があったので我慢して全部読んだが、最後の最後まで「ボクは人間道徳の王道ですアピール」が気持ち悪くてヘドが出た。これが「社会的に素晴らしい」こととされ、勝ち組にはこういう人間がなるのだと思うと、まったく気分が暗くなった。なんというおためごかし。哲学的要素のカケラもない。「モノゴトを考える」という意味での。
会社が大きくなっていく、というのは人に爽快感を与える題材であることは間違いない。なんせサクセスストーリーだから。でも、ねえ。
介護問題についてはよくわからない。ウチのじいさんは某救急病院に入院していたとき、物凄く不機嫌だった。こっちの問いかけを無視するのでなにが不満なのかはわからないのだけれど、機嫌が悪いことだけはわかった。山奥の施設に変わってからは機嫌も良さそうで、こちらの問いかけにも答えるようになった。最近は会ってないが、徐々に弱ってきており、あと半年くらいだそうだ。
ウチの亡くなったばあさんは、毎朝施設に行くのを嫌がっていた。
俺が孤独とかなんとか人生の意義とかについて悩むのは、この二人と家族を見てきたからかもしれない。
家族は険悪だった。無関心な父、負担を一手に引き受ける母、「ヒキコモリの長男」、娘のところへ行きたいとわがままを言うばあさん、それに怒る世話をしている母、まるで罰のように一人で食事をするばあさん、一緒に食事をしようと家族にはたらきかけるヒキコモリの長男、嬉しそうなばあさん、翌日、娘のいる埼玉に行きたいというばあさん、怒るいつも世話をしている母、関東から駆けつけてくるばあさんの娘、食事に連れて行ってもらう糖尿病のばあさん、それに鬼のような態度をとるいつも世話をしてる母、泣くばあさんの娘、それを慰めるひきこもりの長男、母親の不満を聞くひきこもりの長男、無関心の父、施設にいる寝たきりのじいさん、嫁に来た時にじいさんに性的な嫌がらせを受け、それをばあさんに相談したところ、微笑みながら「好きなようにしたらいいよ」とだけしか言われなかった事を、ひきこもりの長男に泣きながら打ち明ける母、憎み、しかし世話をする。次男と長女は無関心。どこか一人、客観的に眺めているような長男は、どうして誰一人救う事ができないのか悩む。そして救えそうで、結局誰一人救えない事、自分にその力がないことを知る。こんなもののために人生があるのだろうかと、悩む。
ばあさんは、「はやく死にたい」とよく洩らしていた。
ばあさんが死んで、長女は遺体のそばを離れなかった。母とばあさんの娘は泣きながら仲直りをした。父は弔辞で涙を流した。
彼らの涙を見ることなく、ばあさんは死んでいったのだ。
なぜ俺だけでも、ばあさんに何かできなかったのだろう。もう今では誰も考えない。俺は今でも考える。だって、きっとあの事態をなんとかできたのは、ばあさんを救ってやれたのは、俺だけしかいなかったのだ。あの状況で一人わかっていた。色々なことがわかっていた。全員の苦しみを想像できた。誰よりも、婆さんの孤独と絶望を理解できた。俺もまた地獄にいたから。あるいはだからこそ、手一杯だったのだろうか。それでも、俺は何もしなかったのだ。その後悔だけが残る。
老いと死についても考える。人生は素晴らしいなんて、何を見てそう言うんだ。何も見てないか、現実逃避のどっちかだ。
そしてその現実逃避が正しいのだ。あらゆる意味で正しいのだ。ほとんどの人はそう信じて生きている。俺も、そうしなきゃおかしくなってしまうから。
去年、その居酒屋を扱った本を読んだことがある。アマゾンなんかの書評では「さわやか」「爽快」「バイタリティに溢れた社長は尊敬できる」とかいうことが書いてあったが、そもそもそういう読後感を与えるような本じゃなきゃ出版できないだろうというコトを考えると、本としてはさわやかであっても、現実にそうかというと疑問符がつくことくらいは自明である。
ちなみに俺は、本を読んでて気持ちが悪かった。だって超ウサンくさいもん。事情があったので我慢して全部読んだが、最後の最後まで「ボクは人間道徳の王道ですアピール」が気持ち悪くてヘドが出た。これが「社会的に素晴らしい」こととされ、勝ち組にはこういう人間がなるのだと思うと、まったく気分が暗くなった。なんというおためごかし。哲学的要素のカケラもない。「モノゴトを考える」という意味での。
会社が大きくなっていく、というのは人に爽快感を与える題材であることは間違いない。なんせサクセスストーリーだから。でも、ねえ。
介護問題についてはよくわからない。ウチのじいさんは某救急病院に入院していたとき、物凄く不機嫌だった。こっちの問いかけを無視するのでなにが不満なのかはわからないのだけれど、機嫌が悪いことだけはわかった。山奥の施設に変わってからは機嫌も良さそうで、こちらの問いかけにも答えるようになった。最近は会ってないが、徐々に弱ってきており、あと半年くらいだそうだ。
ウチの亡くなったばあさんは、毎朝施設に行くのを嫌がっていた。
俺が孤独とかなんとか人生の意義とかについて悩むのは、この二人と家族を見てきたからかもしれない。
家族は険悪だった。無関心な父、負担を一手に引き受ける母、「ヒキコモリの長男」、娘のところへ行きたいとわがままを言うばあさん、それに怒る世話をしている母、まるで罰のように一人で食事をするばあさん、一緒に食事をしようと家族にはたらきかけるヒキコモリの長男、嬉しそうなばあさん、翌日、娘のいる埼玉に行きたいというばあさん、怒るいつも世話をしている母、関東から駆けつけてくるばあさんの娘、食事に連れて行ってもらう糖尿病のばあさん、それに鬼のような態度をとるいつも世話をしてる母、泣くばあさんの娘、それを慰めるひきこもりの長男、母親の不満を聞くひきこもりの長男、無関心の父、施設にいる寝たきりのじいさん、嫁に来た時にじいさんに性的な嫌がらせを受け、それをばあさんに相談したところ、微笑みながら「好きなようにしたらいいよ」とだけしか言われなかった事を、ひきこもりの長男に泣きながら打ち明ける母、憎み、しかし世話をする。次男と長女は無関心。どこか一人、客観的に眺めているような長男は、どうして誰一人救う事ができないのか悩む。そして救えそうで、結局誰一人救えない事、自分にその力がないことを知る。こんなもののために人生があるのだろうかと、悩む。
ばあさんは、「はやく死にたい」とよく洩らしていた。
ばあさんが死んで、長女は遺体のそばを離れなかった。母とばあさんの娘は泣きながら仲直りをした。父は弔辞で涙を流した。
彼らの涙を見ることなく、ばあさんは死んでいったのだ。
なぜ俺だけでも、ばあさんに何かできなかったのだろう。もう今では誰も考えない。俺は今でも考える。だって、きっとあの事態をなんとかできたのは、ばあさんを救ってやれたのは、俺だけしかいなかったのだ。あの状況で一人わかっていた。色々なことがわかっていた。全員の苦しみを想像できた。誰よりも、婆さんの孤独と絶望を理解できた。俺もまた地獄にいたから。あるいはだからこそ、手一杯だったのだろうか。それでも、俺は何もしなかったのだ。その後悔だけが残る。
老いと死についても考える。人生は素晴らしいなんて、何を見てそう言うんだ。何も見てないか、現実逃避のどっちかだ。
そしてその現実逃避が正しいのだ。あらゆる意味で正しいのだ。ほとんどの人はそう信じて生きている。俺も、そうしなきゃおかしくなってしまうから。
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